普通の女の子と完全な球体のカップリング


 丸瀬円香にとって、丸という記号は特別だった。

 一丸、円満、大団円などという熟語にもあるように、丸にはフレンドリーでポジティブなイメージがある。その記号を2つも賜った自分の名前を円香は気に入っていた。自己紹介でも名前をいじって一笑いが取れる。ついたあだ名も「まるまる」だ。円香にとって丸はアイデンティティですらあった。

 だからこそ、その光景を見て円香は驚愕した。

 乗り込んだ電車の座席に、


 『完全な球体』が座っていたのだ。

 

 

 

~登場人物紹介~

・丸瀬円香

 高校生。地質研究部に所属している。文系。


完全な球体 

 中心の座標と半径のみで定義されている。

 

 

 

 しばらくの間、円香はその球体に目を奪われていた。丸い。あまりにも丸い。今までたくさんの丸いものを見てきたと自負している円香だったが、目の前のそれはもはや別次元の丸さなのだ。無意識に手を伸ばしそうになり、それをなんとか理性で抑え込んだ。円香の葛藤もまるで気にも留めていないかのように、球体はそこに佇んでいる。電車のシートにそこそこの大きさの球体が存在しているという圧倒的な違和感がそこには存在していた。だが、その違和感を呑み込んでしまうほどの超然的な存在感が球体にはあり、電車内はもはや荘厳とした空間と化しているように円香は感じていた。

 なんとか平静を取り戻した円香は、電車がもうすぐ自分の最寄り駅に到着することに気がついた。流石に持って帰っては駄目だろうし、放っておいても駅員がいずれ気付くだろうと考えた円香は、ひとまずスマホで写真を撮った。うっかりシャッター音を鳴らしてしまい慌てて周囲を確認したが、幸いにも車両に乗客は円香しかいなかった。ブレーキがかかり、電車が揺れた。立っていた円香はバランスを崩しかけたが、球体は転がることなくそこにあった。円香は心の中で尊敬の意を示しつつ、電車の開いたドアから降りた。SNSの投稿画面を開こうとしたとき、後ろから声を掛けられた。


「あの、すみません……」


 振り返ろうとして、違和感に気付く。この車両に乗っていたのは自分だけだ。当然、降りたのも自分だけのはずだ。この状況で、後ろから声を掛けられるはずがない。

 恐る恐る振り返る。そこには、


「今、写真撮りましたよね?」


 先ほどの球体が、円香の目の高さくらいに浮かんでいた。


「困るんですよね。肖像権の侵害ですよ?」


 話し掛けてきていたのは、完全な球体だった。

 あまりの光景に、円香は再び声を失った。

 

 


  ◎ ●

 

 

 

「あの、すみません……えっと、あなたは……?」

「……あぁ、流石に困惑しますか。私は完全な球体です」

「完全な……球体……?」


 円香は未だに冷静さを取り戻せずにいた。まるで人間の不完全さを理解していないかのように、完全な球体は話を続けた。


「さて、私は名乗りました。あなたも名乗るのが筋ってものでしょう」

「あ、あの、えっと、丸瀬円香っていいます。あの、名前に丸が2つもあって……」

「はい」

「えーと……はい……」


 鉄板の自己紹介も意図せず滑ってしまった。完全な球体には摩擦もないのか、と円香は改めて目の前の存在に慄いた。


「あの、写真のことはすいません……つい、出来心で……」

「ええ、写真のことはいいでしょう。実は私もあなたのことが気になっていたんです。さっき電車内でずっと私のことを見ていたでしょう。私も正直なところ戸惑っていったんですよ。どうしてずっと私を見ていたんですか?」

「えっと、ちょっと見たことのない丸さだったので……」

「なるほど。確かに私ほど丸いものはこの世界には無いでしょう。しかし、私のような存在はは誰もが最も想像しやすい、と思っていたのですがね。やはり想像と実在では違うのでしょうか」


 円香には目の前の球体が首を傾げているように見えていた。よく考えると、完全な球体と話せる機会なんてなかなか無い。円香は気を引き締めて完全な球体に向き直った。


「あの、すみません! 球体さんは電車でどこに行かれる予定だったんですか!」

「いや、実は行き先など無いのです。当てもない旅路、とでも言うのでしょうか」

「えーと、じゃあどこから来られたんですか!」

「それも特にありません。私の存在は人の定義に依るところが大きいのです。……ところで、場所を変えましょうか。あなたもどこか行き先があったのでは?」

「いえ、帰るとこだったので時間は大丈夫です! じゃあちょっと喋りながら一緒に歩きましょうか!」

「……そんなに気を張らなくていいですよ。リラックスしてください」


 2人は改札に向かって歩みを進めた。球体は空中を滑るように高さを変えずに等速直線運動をしていた。そんな移動ができるならわざわざどうして電車に乗っていたんだろう、と円香は少し怪訝に思った。
 改札に近づいてきた。定期の準備をした円香は球体がどうするのか気をつけて覗き込んでいた。球体は、自身の色を周囲の風景に溶け込ませ始め、やがてすっかり見えなくなってしまった。この完全な球体は人間の理解を超えているのだ、と改めて円香は認識した。


 普段は通らない川沿いの遊歩道を進んでいく。夕焼けが綺麗に映えていたが、そんなことは今の円香にはどうでもよかった。道行く人は球体を訝しげにじっと見つめたり、驚いて二度見したりしていたが、話しかけてきたりすることはなかった。円香はほんの少しの優越感を抱いていた。


「球体さん、って言いづらいですよね。きゅーちゃんってあだ名はどうですか?」

「ははは、いいですね。球体のきゅーちゃん。安直で素敵です」

「む、それって誉めてますか?」


 完全な球体を相手にするのに馴れてきたのか、円香はいつも通りのペースを取り戻していた。


「私もまるまるっていうあだ名があって、丸についてたまに考えるんです。丸いものってかわいいんですよ。カー○ィとかアン○ンマンとかドラ○もんとか。あ、今タピオカが人気なのもたぶん丸いからなんですよね。きっときゅーちゃんさんも人気出ますよ。丸いので」

「きゅーちゃんさんですか。敬称が2つもついているのが素晴らしいですね。確かに丸いと人気が出るとは思いますけど、GA○TZが流行ったときは大変でした」

「あはは、そんなのもありましたね」


 その見た目とは裏腹な球体の柔らかい話し方に、円香はすっかり安心してしまっていた。周囲も暗くなり始め、きゅーちゃんに帰るところはあるのだろうかと円香が考えていると、遠くに見知った顔が見えた。


「あ、あれ私の妹の茉莉(まつり)です。中学はここが通学路なので。たぶん部活終わりですね」

「なるほど。少し挨拶をしておきましょうか」


 茉莉も円香の存在に気がつき、手を振りながら2人のほうに近づいてきた。だが、近づくにつれて小走りだった歩みはゆっくりになり、ある程度の距離を保って立ち止まってしまった。


「お、お姉ちゃん……それ、何……?」

「茉莉、お帰り。こっちは球体のきゅーちゃん。電車で会ったの」

「茉莉さん、初めまして。完全な球体のきゅーちゃんです」


 茉莉は固まったまま動かない。円香が距離を詰めようと一歩踏み出したら、茉莉も一歩下がって距離を持った。


「お姉ちゃん……」

「茉莉? どうしたの?」

「……?」

「…………うわーーーー!!!!!! お姉ちゃんがーーーーー!!!!! お姉ちゃんが訳わかんなっ…………

 訳わかんないーーーーーー!!!!!!!!うわーーーーーーーー!!!!!!!!!」


 茉莉は泣き叫びながら走り去ってしまった。残された2人は状況が飲み込めずしばらく立ち尽くしていたが、気まずい空気を断ち切ろうと円香が口を開いた。


「あはは、すいません、うちの妹が。本当はとってもいい子なんですよ?」

「……いや、謝るのは私の方です。私が茉莉さんを怯えさせてしまって、申し訳ありません。こんなことでは完全な存在とは言えません……」


 謝らないで、と言おうとした口を円香は一旦閉じた。球体の一言が心に引っ掛かったのだ。


「すいません、そのー……完全な存在っていうのって、何なんですか?」

「……完全な存在とは、定義がはっきりとしており、どんな人にでも正しい形が共有できるものです。それなのに私は、茉莉さんからは円香さんからと違う存在に見えていたのでしょう……」

「……まぁ、気にしなくてもいいじゃないですか。人間ってそんなもんですよ。意思疎通がきちんとできなくて、正しいイメージが共有できなくて、不完全で。これを機にきゅーちゃんも不完全になっちゃいましょう」

「不完全でも、いい……」


 そう呟いた球体は、もはや完全な球体とは言えない形状になっていた。一方向に伸び、縮み、捻れ、微分不可能な形になった。やがて空気が抜けたように萎んでいき、地面に落ち、消え去ってしまった。最後に、ありがとう、という一言が聞こえた気がした。

 円香はそれを見て呆気に取られたが、やがて家路に向かい歩き始めた。

 完全な球体は、いつでも心の中にあるのだ。あとスマホのカメラロールにも。