Pessimum

 人間関係は壊れる瞬間が一番美しい、というのが小塚沙子の持論である。

 


 彼女がそれを自覚したのは8年前、沙子がまだ小学生だった頃だ。小学生の人間関係は単純なように見えて内情は複雑怪奇であり、クラス単位だけでなくクラス外の人間の繋がりや、登校班等にも関わる近所付き合い、兄弟姉妹関係といった家族ぐるみでの関わり、委員会やクラブ活動、教員との親密度など、関係性を構築する要素は多岐に亘る。そして、そのどれもが“知ろうとすれば知ることができる”範囲に収まっている。

 沙子にとって、それはゲームだった。多くの生徒たちは自分と仲のいい友達、機会があればしゃべる人、存在だけは知ってるけれど謎な人、などと周囲の人間を分類し、仲のいい友達と多くの時間を過ごしていた。それが彼らにとって最も居心地の良い時間を増やす、幸福の最大化を目指すための手段であったのだが、沙子のやり方はそうではなかった。

 クラス全員の人間関係を研究し、どうすれば相手にとっての1番になれるかを考えた。相手の好み、考え方、時間の使い方などを把握し、調略し、掌握した。人と話すのが好きな人に対しては興味のありそうな話題を提供し、相手の考えを肯定し、さらに新たな話題提供ができるように相手の経験にないことを積極的に話に持ち出し、実践させた。1人で本を読むのが好きな人に対しては共通の趣味として読書をし、様々な本について語り、相手の楽しみを自分も理解できているように振る舞った。沙子は特別読書が好きというわけではなかったが、そのような人間関係の構築のためならば時間と手間を惜しまなかった。彼女はそういう人間なのだ。


 彼女と関わった多くの人間にとって、沙子はかけがえのない友達であり、これからもっと沢山の思い出を共に作っていけるものだと思われていた。しかし、その段階に達した時点で沙子の興味はもうその人物には無いのだ。沙子はその経験と知識量から、関係性を新たに構築するだけでなく、いかに波風を立たせずに関係性を無かったことにしていくかにも長けていた。理由をでっち上げて共に過ごす時間を減らしていったり、もしくは意図的に顔を合わせないように立ち回ったり、それでもしつこく追いかけてくる奴に対しては偶然を装って別のと懇意にしているところを見せつけたり。それは最初は新たなゲームに進むための後片付けに過ぎなかったが、沙子がそこにも面白さを見出すのに長い時間はかからなかった。

 


 小塚沙子は中学2年生の頃に転校を経験している。彼女にとってこのイベントは言うなればボーナスステージのようなもので、ここで人間関係をリセットするまでに如何にして校内での人間関係を引っ掻き回せるかに生涯で最大級の心血を注いだ。上級生、下級生に関わらず様々な関係を同時に持ち、さらにそれらが干渉しないように心理を誘導した。多感な時期である彼ら、彼女らにとって、『特別な関係』という響きはあまりに蠱惑的だった。沙子は巧みな言い回しで相手を立て、翻弄し、時には脅し、沙子の思い描く状況を作っていった。無邪気な子供のように、沙子は学校をドミノの城へと変えていった。

 引っ越した先で、沙子は前の学校がどうなったかを知ることはなかった。きっと綺麗に崩れてくれたのだろう、と沙子は夢想する。とはいえ、崩れた破片がぶつかってくるのは御免だ。危険からは距離を置く、というのも沙子が決して短くない人生で得た知見の一つだった。それに、沙子はうまく壊れてくれた人間関係を想像するだけでもう十分に楽しむことができたのだ。準備を念入りに進めたぶん、この想像は決して妄想ではないのだという絶対の自信が沙子にはあり、沙子にはそれが堪らなく嬉しかった。

 


 その後、中学を卒業して高校生活まで沙子は比較的大人しく過ごしていた。先述の件で情熱を燃やし尽くしたのか、もしくは長期間同じ人間と顔を合わせる環境に対して保身に走ったのか、はたまたインターネットという新しいおもちゃを見つけたからなのか。何にせよ、沙子は学校生活において派手な遊びはあまりしなくなり、ほどほどに遊んでほどほどに楽しんでいた。

 

 

 沙子の魂に再び火が燈ったのが、大学生になり、『彼女』と出会った時だ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 「哲学的ゾンビ」という概念をご存知だろうか。

 彼らには“自我”というものが無いのだという。彼らは人と同じように笑ったり泣いたりするが、その行為の中に彼らの意思は含まれていない。ただ彼らは外部から目や耳を通して得た情報に対して“反応”しているに過ぎない、とのことだ。

 


 何となく自分に似ているな、と柿本彩音は思っていた。

 


 物心ついた頃から、彩音は周囲に合わせて生きてきた。それは決して同じコミュニティを形成している人たちとの対立を恐れていたというわけではなく、純粋に自分の独立した考えを持つことができなかったからだ。なぜ周りの友達は色々なものに対して好きか嫌いかを即答できるのか理解できなかった。初めて見るものに対しては、何の感情も湧かない。周りの人がそれに対して取った反応を見て、自分の取るべき反応を学習する。その積み重ねが感情の獲得になるのだろう、というのが彩音の哲学だった。


 彩音には4つ年上の姉がいた。年の離れた姉は幼い頃から彩音を溺愛し、服や日用品など身の回りのものについて、姉は彩音に自分の好みのものばかりを与えていた。そうして喜ぶ姉の姿を見て、彩音もまた喜んだ。気がつけば彩音の部屋には彩音自身が自分で選んだものなど何一つなく、彩音は姉に対して依存しているような兆候があった。とはいえ学校内で彩音は姉と共に過ごす時間も少なくなっていき、また高校入学と共に寮生活を始めた姉はそれからさらに彩音と会う機会も少なくなっていった。


 彩音の考え方は学校での勉学と相性が良く、授業の内容は科目によらず彩音はすんなりと理解できていた。どのような問題が出てくるのか、それにどのように対処するのか、ということを授業では体系立てて説明していて、その通りにしていれば問題なく正解できる、ということに彩音は居心地の良さを感じていた。ただ、周りの友人たちは勉強を苦手としていることが多く、彩音も自分の勉強に対してのスタンスは彼女たちに合わせていた。文理選択も周りに合わせて文系にしていた。

 周りの友人はよく恋愛について話題に挙げていた。クラスの中で誰と誰が付き合っているとか、誰が誰のことを好きだとか。正直なところ、彩音はその話題について、ひいては恋愛感情についてのことを何一つ理解できてはいなかった。だが、彩音はそれを周囲に打ち明けることはなかった。そんな話題を出さずとも、定型文の組み合わせで十分に会話についていくことができた。そしてそれを愉快とも不愉快とも感じなかった。ただただ周囲に合わせるだけだ。

 

 

 そんな彩音にも、人生を変えたかもしれない出会いはあった。高校2年の夏休み明け、クラスに転校生がやってきた。彼女はいつも寡黙で、休み時間なども積極的に周りと関わろうとはしていなかった。どのコミュニティにも属さない彼女は、やがてクラスから浮いた存在となっていった。そして彼女はそのことを気にも留めていないようだった。そんな彼女のことを、彩音はいつも視界の隅で捉えていた。


 彩音が彼女と話す機会を得たのは、秋の文化祭のシーズンだった。クラスで出展をすることになった彩音たちは準備のための役割分担を決めることになり、偶然の成り行きで転校生の彼女と同じ班となった。初めは必要最低限の会話をするだけの2人だったが、数日をかけて少しずつ距離を縮めていき、その日の準備のタイミングで彩音はなんとなく自分が疑問に思っていることを彼女に問いかけてみた。なぜ周りに合わせようとしないのかを。

 彼女が言うには、人間関係など下らないそうだ。どれだけ表面上仲良くしていても、心の内側なんて誰もわからないし、人間の感情は曖昧で不確かだ。人はお互いのことを理解しあえない。だから、周りに合わせる必要など無いのだと彼女は言った。そんな彼女の発言に対して、彩音はどう応えたらいいのかわからなかった。


 また別のある日。今度は逆に転校生の方から彩音に問いかけがあった。単純明快な問いかけだ。友人と一緒にいることは楽しいか?

 彩音はやはり即答はできなかった。いろんな人の話を聞くことは知見を広げるのに役に立つ、とか、課題や授業内容の変更といった有益な情報を得やすくなる、といった話を聞いて、転校生の彼女は彩音の異常性に少し気が付き始めた。彩音には自己の主観的意識が著しく欠落している。とはいえ、彼女は人間関係のトラウマがあり、彩音に対して一歩を踏み出すことができなかった。これから何か困ったことがあれば頼ってきてもいい、という0.5歩の提案に留まり、彩音もそれを了承した。

 

 時は流れ、文化祭も終わり、クラスは元の様相に戻っていった。彩音も、転校生も、元々の状態に戻った。2人はこの後卒業まで、文化祭準備の時のように会話を交わすことはなかった。

 

 

 

 そこそこ勉強ができた彩音は、無事に入学試験を突破して晴れて大学1年生となった。

 


 彩音はそこで『彼女』と出会った。

Macrocell

 初夏。よく晴れた朝の街並み。学校へ続く道を2人の女の子が歩いている。

 五十島苑香(いそしまそのか)。高校生でありながら学校近くのアパートを借りて一人暮らしをしている、という『設定』である。
 隣を歩いているのは相川乃亜(あいかわのあ)。苑香のアパートの近くに住んでおり、毎朝待ち合わせて一緒に登校している。苑香の家に転がり込むこともよくある、苑香の親友、という『設定』である。
 夏服への移行期間はまだ終わっていないが、日に日に暑くなる気温に耐えられず、2人ともすでに半袖シャツに衣替えしている。それでも暑さが和らぐわけもなく、時折吹く風もまるで炊飯器を開けた時のような熱風である。わざわざこんな『設定』にしなくてもいいのに、と苑香は乃亜に聞こえないようこっそり愚痴を漏らした。

 照り付ける夏の日差しも、道を走る自動車も、隣で楽しそうに話す親友さえも、そのように脳に見せられているだけ、ということを苑香は理解している。本当の自分は病に伏していて、現在の最先端の医療技術で辛うじて生き永らえている、ということも。

 人の脳に直接電気信号を送り込み、脳の演算能力を利用して人為的に『夢』を見せる技術。まだ一般には広まっておらず、臨床実験として苑香の脳は使われている。世界は今まさに第四次産業革命を迎えていると言われており、ひょっとしたら苑香が目覚められるのも時間の問題なのかもしれない。そんなことを彼女が望んでいるかは別として。


「そーのーかー。何ボーっとしてんの?」

 乃亜の呼ぶ声に苑香はハッと"夢"に引き戻される。目の前の信号はちょうど点滅から赤に変わるタイミングで、乃亜は横断歩道の途中で引き返してきたらしい。良い友人を持ったな、と苑香は自嘲気味に笑った。

「ごめんごめん、何でもないよ。ちょっと現実の自分のこと考えてた」
「苑香、またそれ? 中二病はそろそろ卒業しなよー」
「……本当はわかってるくせに」
「何のことだか。それよりさ、さっきの話の続きなんだけどね……」

 乃亜は楽しげに話し始める。話の内容もころころ変わるし、時々どこか抜けている。本当に普通の人間にしか見えないが、彼女もまた自分が見せられている夢の一部、つまりは良くできた人工知能なのだ。

 教室はいつも通り賑やかだ。皆が各々自分の話をしているのは普通の世界なら当然のことだが、苑香の見ているこの景色となると話が変わってくる。彼ら、彼女らは本来であれば苑香の気を紛らわすためだけに存在しており、苑香の関与しない生活など無くてもよいはずである。しかし、彼らにも間違いなく生活があり、感情があり、人生を歩んでいるのだ。苑香はいつもぼんやりとそのことを不思議に思っていたが、授業の始まりとともに彼女の興味の対象はAIたちから目の前の教科書へと移っていった。


 授業が終わり、放課後を迎えた。2人とも部活には入っていないが、彼女らには行かなければならない場所がある。バイト先のファミリーレストランだ。学校制服からエプロンに着替え、2人はホールに出る。平日とはいえ店はそこそこの客で賑わっており、2人はそれなりに忙しい時間を過ごした。乃亜のミスをカバーしたり、逆に乃亜やほかのスタッフに助けてもらったり。苑香はこの時間が嫌いではなかった。時折どうしても孤独を感じてしまうこの生活の中で、苦楽を共にできる仲間との交流は苑香の心の支えとなっていた。ついでに言うと、ファミレスでのまかない料理は苑香の財布の支えにもなっていた。

「今度さ、またお泊り会しようよ」
「んー、考えとく」

 まかないのパスタをつつきながら乃亜がそんな提案をしてくる。曰く、期末テストに向けた勉強会をしたいのだという。テストにあまり興味のない苑香は適当にあしらう。どうせ途中で脱線してゲームしたり遊んだりしてしまうに決まっているのだ。そして、苑香は乃亜と過ごすそんな時間が嫌いではなかった。

「苑香ちゃん理科系あんま得意じゃないでしょ? 助けになると思うよ~、じゃあ代わりに古文教えてね」
「何も言ってないのに勝手に話し進めるじゃん……まあ別にいいけど、まぁあんまり当てにしないでね」
「まあ当てにすんな酷すぎる借金?」
「ん? ……んー」
「うわ、ほんとに分かってない人のリアクションだ。それ一番困るから」


 次の週末。乃亜は朝から苑香の家に遊びに来た。汚いところだけどあがって、こんなの汚いうちに入らないよ、と何度目かもわからないようないつもの挨拶を経て、2人の勉強会が始まった。乃亜はビニール袋いっぱいのお菓子を持ってきていたし、苑香もちゃっかり大量のジュースを冷蔵庫で待機させていた。
 初めはこなさなければならない課題もあり、2人は真面目に勉強をしていた。だが、1時間くらい経ち、ちょっと休憩、と言ってテレビを点けてから、そのテレビを切る頃には既に辺りは暗くなり始めていた。

「思った通り。全然勉強会にならなかったね」
「まーいいじゃん、まだテストまで10日以上あるんだよ? のんびり行こうよ」
「乃亜はすぐそう言うし、実際のんびりしてるのに、なんでテストいっつも上位なの……?」
「えへへ、地頭ってやつ? ていうか苑香もそんなに悪いわけじゃないじゃん」
「そーだけど。でも乃亜と比べられるとやっぱりね……」
「気にしなくていいのに……」

 スーパーで食材を買ってきた帰り道。2人はそんな他愛のない話に花を咲かせる。こんな生活がずっとは続かないことを苑香はきちんと理解はしていたが、それでもこんな生活がずっと続けばいいと願っていた。そして、この時乃亜は、苑香とは別のベクトルの幸せを感じていたのだった。

 ご飯を食べて、お風呂に入り、テレビドラマを流しつつ2人で家事や翌日の準備をする。お泊り会の日の2人のいつもの光景だ。いろいろな雑務が一段落ついたら、ソファに並んで座ってお話をする。いつも通りだが、今日は少し乃亜の様子が違っていた。

「……ねえ、苑香。前に言ってたよね。本物の自分は病気で植物状態って話」
「うん、まぁ……証明はできないんだけどね」
「あの話ね、最近特に……本当なんじゃないかな、っていうか、本当なんだろうなって、わかる感じがするの」

 意外な乃亜の告白に驚いた苑香は乃亜の表情を探ろうとした。しかし、乃亜は俯いたまま話し続ける。

「なんかね。前から時々、私は苑香の近くにいるときだけ本当の私になれる、みたいな感覚はあったんだ。家に一人でいても、テレビを見てても本を読んでても、時間があっという間に過ぎる、というか……苑香の近くにいる時とはなんというか、感覚の密度が違う、みたいな……ごめんね、意味わからないか」
「……大丈夫だよ、続けて」
「ありがと。……苑香と出会う前、中学の時のこととか、私はちゃんと覚えてるし記憶もあるんだけど、でもそれとは別に私は最近生まれたんじゃないか、って感覚もあるの。普通なら意味わかんないんだけど、苑香の言ってたことと合わせると辻褄が合う、というか、正しいんだろうな……って思う。で、それだけなら別にいいんだけど、最近特に自分の感覚がおかしい気がするの」
「……うん」
「なんていうかさ、これはただの予想なんだけど、きっと現実の苑香は良くなってきてるんだよ。目覚めるのも時間の問題。で、もしそうなったら……私って、どうなるのかな……」
「……」

 逡巡。乃亜の言っていることは正しい、という感覚は苑香の中にもあった。テスト勉強を口実に集まったのに、テストの日までこの世界にいられるか、苑香は断言することができなかった。──いや、もしかしたら覚醒の日はもっと早く来るかもしれない──苑香は立ち上がり、勉強机の下から2番目の引き出しを開けた。

「……苑香、どうしたの?」
「私ね、貯金してたんだ。仕送りとバイト代。ぶっちゃけ十分すぎるくらいお金はあったけど、なんとなくね。……今から、使い切っちゃおう」
「今から?」


 夜の帳は既に降りきっているが、それでもまだ半袖で十分すぎるくらいだ。2人はこの時間には使ったことのないバスに乗って、駅に向かっていた。

「あ、今調べたんだけど深夜でも高校生だけでタクシー乗っていいんだって。むしろ安全のために推奨されてるみたい。やったね、どこまでも行けるよ」
「……苑香、大丈夫? 深夜料金もそうだし、職質とかもあるだろうし、明日には帰るんだよね? 月曜には学校もバイトもあるよ? ……たぶん」
「月曜が来ればね。でも私、やっぱり後悔したくないの。そういえば、乃亜がどうなのかはわからないけど、私ね、ごはんとか寝るのを我慢するの、試したことあるんだ。やっぱり空腹感とか眠気ってそんな気がするってだけで、本当は寝なくても食べなくても大丈夫なの。長旅になったとしても安心だよ」
「話聞いてた!? そんな問題じゃないよ!! それに、さ……」
「……大丈夫。ゆっくりでいいよ。あ、駅着くから準備して」


 2人の逃避行が始まった。駅からは終電の時間までとにかく西に向かい、電車が終わったらタクシーに乗り換えた。適当に遠くの県庁所在地の名前を挙げたら初老の運転手は若干怪訝な目を向けたが、無事始発の時間に都市圏のターミナルに着くことができた。ちなみに、タクシー内で2人はぐっすり眠っていた。

 折角なので朝日を見たいと何となく話していたら、別れ際の運転手がおすすめの場所を教えてくれた。なんでも駅から頑張れば歩ける程度の距離で、海岸線の向こうから昇る朝日が見られるスポットがあるのだという。乃亜は歩きたくないのでスルーするつもりだったが、苑香はじゃあお願いしますとタクシーに再び乗り込んだ。乃亜と運転手は同じ表情を浮かべていた。


 夜明け前の海は若干肌寒く、強い風が容赦なく薄着の2人を襲った。2人は岩場の影に隠れながら、夜明けの時を待っていた。そんな中で、2人にはさらにタイムリミットの予感もしていた。何とはなしに、乃亜が口を開いた。

「まさかこんなことになるとは思ってなかったよ。まず、ありがとう。……じゃあさ、話すね?」
「……うん」
「私たち、苑香以外の全人類は苑香のために作られた存在だってこと、今は理解してる。やっぱり夢ってさ、これ夢だなーって思ったら醒めやすくなっちゃうし、今こんな感じなのももしかしたら私のせいかもね、なーんて」
「……」
「……私はさ、苑香がこれからも元気に生きていてくれるのが一番だと思う。これは自分の意志ね。私がどういう存在とか、何のために生まれたとか、そんなのは関係ないの。だからさ、これからも私のこと、ここで過ごしたこと、ちゃんと覚えておいてね?」
「うん……」
「あっほら、そろそろ日が昇るよ!」

 岩場から移動し、海岸のほうへ向かう2人。太陽が、海の果てからゆっくりと顔を出している。今まで幾度となく見られたはずの光景で、この世界では最後の夜明けだった。視界が、意識が、徐々に白んでいく。ずっとこのままがいいのに。そう苑香は思っていたが、無情にも陽はすべてを照らしていく。海を、空を、大地を、親友の笑顔を。

「これからは向こうで頑張ってね。ずっと、応援してるから──」


























































「目が覚めたのね、おはよう、五十島さん。いい夢は見られたかしら」

 病室の天井が視界に入った。続いて、異様に伸びている自分の前髪に気がついた。ここは病院で、自分は入院中で、現実が返ってきたのだ。
 身を起こせないので、視線で返事をする。さっきの声は、近くにいた女医のものであった。

「改めて自己紹介をしますね。私はあなたの担当医の相川といいます。五十島さんが眠っている間、私がいろいろな世話だとかその機械の調整だとかをしていました。これからも退院まで、よろしくお願いしますね」

「じゃあとりあえず、頭についている電極パッドを外しますね。夢の中に世界を作り出す研究については、まだデータが少なくてよくわからない部分も多くて。体力が戻ってきたらお話を聞かせてくださいね」

 言葉を発することもできず、ただ自分の周囲で作業をするその人を視線で追う。面影はある。名札には『相川 乃亜』と書かれていた。


 数日して、ある程度体の機能は戻ってきた。苑香の思っていたよりも技術は進歩しており、介護用のロボットアームやリハビリ用のスーツに苑香は何度も助けられた。久しぶりに両親の顔が見られてよかったと苑香は思ったが、一番見たい人の顔を見ることはできなかった。

 担当医が言っていたように、苑香はとある実験の被検体だった。その内容は人間に任意の夢を見せるという内容だけでなく、人間の脳だけで世界を作り出すほどの演算をさせ、生活のシミュレーションを行わせるという内容も含まれていた。脳から出力される内容が夢であり、それを外部からはおぼろげにしか観測できず、ログデータなんかも残されていないようで、相川医師はいろいろなことを苑香に訊ねてきた。この実験の内容はその界隈ではかなり注目度が高かったらしく、夢の中での経験を本にしないかと勧められることもあった。しかし、苑香はそれを断っていた。

「そういえば、私と同じ名前のAIがいなかったかしら? 私のパーソナルデータを基にしているものを設定していたのだけれど」

 嘘をつくのも良くないと思い、苑香は乃亜のことを正直に話した。相川医師は喜んでいたが、実のところ苑香は彼女のことをよく思ってはいなかった。あくまで、彼女は自分の親友の乃亜ではないからだ。


 無事に退院の日を迎えてから数か月が経過した。苑香は家に戻り通うはずだった高校に編入した。家族との生活、アルバイトのない日々。無色の生活を送る苑香のもとに、再び相川医師から手紙が来た。新技術の実験への協力のお誘いだった。

 見慣れてしまった建物の応接室に通された苑香は、相川医師と久しぶりに対面した。彼女は苑香との再会を喜んでいるようだった。

「さて、五十島さん。お手紙は見てくれたかしら」
「……えぇ、まぁ。あの実験の続き、ですよね」
「そうなの! 実験のログデータはコンピューター上には残されていないのだけど、五十島さんの脳にはその計算領域が残されているはずなの。そして、人間の脳からコンピュータ上にデータを出力することができれば、より強固な形で実験内容を保存できるの。これは、五十島さんにとっても悪くない話でしょう?」
「……」
「貴女は決して短くない時間をあの世界で過ごしたはずです。思い入れのある人……もたくさんいたでしょう。その人たちともう一度会いたいと、あなたは思わないの?」
「……………………思いません。 実験は、申し訳ないのですが、辞退させてください」

 苑香の声は震えていた。あの日々を思い返す。決して得難いたくさんの経験をしてきた。また会いたい人はたくさんいる。特に、最後までちゃんとありがとうを伝えられなかった人が。

「私は……確かにあの日々は大切な宝物です。だからこそ、あなた方に触れてほしくない。乃亜は、あの子は私の背中を最後に押してくれました。これから前を向いて生きてほしいと。あの子の、自分が死ぬことに対する不安は私には想像できません。だからこそ、私は振り返らないんです。あの子のために。
 私は乃亜が好きだったんです。あの子をこんな世界に呼び戻したいなんて思いません。あなたは、自分がどれだけ残酷なことを申し出ているか分かっていますか。……すみません、失礼なことを言いました。帰ります」
「……そう、それほどの思いがあるなら私からどうこう言えるものではないわね。今日はわざわざ来てもらってありがとう。表まで送るわ」
「……どうも」


 結局、別の被験者を使ってその実験は進められた。だが、苑香ほどこの実験に適した人間はもうこの世にはいないだろう。この一件で脳科学のこの分野では技術の進歩は10年遅れたと言われている。そして、寝たきりの人間の少女とAIの感動的な友情物語は世間に出回ることはなかった。

Lamellar Tear

 レザの生まれた町の近くには“ダンジョン”と呼ばれる謎の建造物があった。夜な夜なダンジョンから魔物が現れ、人々や家畜を襲い、農作物を荒らして回った。町の人々は魔物の脅威に晒されていたが、ただ魔物たちにされるがままの生活を送っていたわけではなかった。体を鍛え、武器を持ち魔物に立ち向かう者もいれば、魔法の技を磨き戦う者もいた。魔物との戦いの日々を経て、町の人々は魔物から身を守るための、戦う力を持つ者を集めた自治組織を生み出した。“自警団”である。
 レザの両親も自警団の人間であった。母親から魔法の才を色濃く受け継いだレザは、幼い頃から周りの子供たちより強い力を行使することができ、成人を迎える頃には自警団の若きホープとして町の期待を集めていた。町の大人の中には「もっと大きな街に出てきちんとした魔法を学んだほうがいい」といった意見を出す者もいたが、彼女は聞く耳を持たなかった。もちろんこの街を守りたいという想いもレザにはあり、人々はレザの故郷愛を嬉しく思っていたが、彼女が町を出なかった理由はもっと別のところにあった。


「いらっしゃいませ……あっ、レザちゃん! 今日もお疲れ様!」
「ありがとうフラム。いつものお願いできる?」
「もちろん! ちょっと待っててね!」

 自警団の活動を終えたレザの行く先は決まっている。町の中の小さな食堂で、甘いお菓子をつまみながら友人と日々の出来事を語り合うのだ。フラムはこの店の看板娘でレザの幼馴染だ。レザとは違って魔物と戦う力を持たないフラムは、実家の食堂を手伝いながらこうしてレザの話し相手になっていた。

「自警団の地力も年々上がってきててね……ダンジョンの内部構造もちょっとずつわかってきてるの」
「そうなんだ! ねね、伝説のお宝は見つかりそうなの?」
「ダンジョンの奥にお宝が眠ってるってやつね。あんなの信じてるのフラムくらいよ? ……でも、遠くの町の別のダンジョンからは魔力を帯びたアイテムが見つかったりしてるらしいわ……このクッキー美味しいわね」
「でしょ! ちょっと苦目にしてみたの。甘いお茶に合うでしょ?」

 フラムと語り合うこの時間はレザにとって憩いの時間であるとともに、建設的な情報共有の機会でもあった。フラムはレザから聞いた情報を店で提供することで冒険者や別の町の自警団といった客層を集めていき、その客から聞き入れた情報をレザに流して自警団の活動に役立てていた。この日もフラムはレザへのとっておきの情報を用意していた。

「聞いた話なんだけどね、王都のほうで勇者召喚の実験やってたって話あったでしょ? あれね、なんとついに成功したらしいの! 変な人らしいんだけど、とっても強くて、いろんな場所のダンジョンに潜って回ってるんだって!」
「へぇ、初耳ね。うちの自警団だって最近になってようやくダンジョン内に踏み込めるようになったっていうのに、それが本当ならその勇者ってとんでもなく強いってことになるわね」
「うんうん! ひょっとしたらこの町にも来てくれるかも! もしそうなったらさ、」
「ダンジョンが踏破されて魔物が出てこなくなる?」
「そうしたらレザちゃんも危険な目に遭わなくなるわけだし、私はそのほうが嬉しいなぁ」
「そっか……」

 レザの心境は複雑だった。確かにフラムの言うことには一理ある。だが、このダンジョンが無くなってしまったら自警団は、この町は、自分は一体どうなってしまうのか。得体の知れない不安がレザを襲っていた。

 次の日から、レザはより多くの時間を鍛錬に使うようになった。フラムの言っていた勇者の話が本当なら、きっとこの町のダンジョンも無くなってしまうのだろう。レザが一晩考えて出した結論は、いっそのこと自分がこのダンジョンを終わらせてやる、といったものだった。もちろんフラムは日に日に窶れていくレザのことを不安に思っていた。だがそれはレザが抱える不安とは比べようのないものであった。


 ある日のダンジョンからの帰り道、レザは怪しげな2人組とすれ違った。片方は見たこともない素材でできた服を着用し、見るからに上等な剣を携えていた。もう片方は神職の女性だ。服装や装飾品を見るからに、王都のほうから来たのだろうということは簡単に分かった。レザはこれまで出会ったどんな魔物よりも2人のことを恐れた。彼らは特にレザのことを気にするでもなく、わあわあと小競り合いをしながらダンジョンのほうに向かっていった。もうすぐ日が暮れるという時間帯で、なおかつ彼らが軽装だったこともあり、彼らは今からダンジョンを潜るわけではないのだろうとレザは考え、フラムの店に寄らずすぐに帰宅し、その夜誰にも告げずに一人でダンジョンに向かっていった。


 フラムがレザの無謀を知ったのは翌日、ダンジョン内で満身創痍で倒れていたレザを勇者たちが保護して町に連れ帰った時だった。


 当然のことながら、自警団のメンバーは口々にレザのことを問い詰めた。なぜわざわざ夜にダンジョンに向かったのか。どうして誰一人として相談をしなかったのか。レザはそれらの質問には黙秘を貫いた。彼女のプライドはもうどうしようもなく砕け散っていたのだ。しかし、まだその誇りの欠片は彼女の手に握られていた。

 自警団のメンバーが彼女のもとから離れ、レザが一人になったタイミングを見計らって、フラムはこっそりと部屋に忍び込んだ。レザはまだベッドの中で塞ぎ込んでいるようだったが、フラムの来訪には気がついたようだった。

「レザちゃん……ごめんね、気づいてあげられなくて……レザちゃんは勇者さんたちがダンジョンを踏破しちゃうことが、怖かったんだよね? 私は自警団じゃないし、戦ったこともないから、ちゃんとはわかってないんだけど……レザちゃんにとってダンジョンはただの魔物を生み出す危険な存在ってわけじゃなかったんだよね?」
「……」
「……お菓子、食べよっか? お茶も持ってきたよ? いらない?」
「……………………いる」

 いつものお店のようにはいかないが、久しぶりに2人の茶会が開かれた。ベッドから出てきたレザの体に残る生々しい傷の数々にフラムは驚いたが、お菓子を食べ始めたレザの憑き物の落ちたような雰囲気にフラムは安心した。ハーブの香りがレザを癒していくようだった。ダンジョンや勇者の話に限らず、2人はいろいろな話をした。こんな時間がずっと続けばいいと、フラムは考えていた。

「そういえばさ、初めてダンジョンの深くまで潜ったんだけどね、中でこんなの見つけちゃったの。フラムに見てほしくて」
「わ、何これ? 手鏡……なのかな? 不思議なデザイン……」
「フラムの欲しがってたお宝ってわけじゃないけどね。よかったらあげるわ。ちょっと不気味かもしれないけど」
「そんなことないよ! わたしレザちゃんから貰ったものだったらなんでも嬉しいもん! 昔レザちゃんが作ってくれたオリジナルのコップだってわたしずっと大事に持ってるんだよ? 水漏れするしやけにギザギザだけど」
「え、あの不良品まだ持ってたの……新しいの買ってあげるから捨てなよそんなの、恥ずかしいよ……」


 レザの傷が癒えるまで、フラムは毎日レザのもとに通い詰めた。レザが怪我でほとんど動けなくなっている間に、勇者たちはダンジョンに潜り、最奥部までたどり着いていた。レザやその他の自警団メンバーは知らないことであったが、ダンジョンの核は一際強い魔物が守っており、核を破壊することでダンジョンは活動を停止するのだ。レザがすっかり元気になるころには、その魔物も勇者によって倒され、ダンジョンは死んでしまっていた。
 自警団は規模を縮小して町の自治組織としての側面を残していたが、多くのメンバーは別の職を見つけて町で生活するか冒険者となって各地の魔物と戦うかの選択を迫られていた。フラムはレザがどういう選択をするのかを不安に思っていた。そして、その不安は現実のものとなる。


「フラム、今までありがとうね。私、町を出ることにしようと思ってるの」


 もしかしたらこうなるかもしれない、とフラムは恐れていた。戦い以外に自分のすべきことがわからない、とか、私はまだ強くなれる気がする、とか、フラムのためにお宝を持って帰ってあげる、とか。フラムがこうなってしまったら嫌だ、と思っていた筋書きの通りの言葉をレザは並べていった。私の望んでいた未来はこうじゃない、と心の中で嘆きながら、フラムは言葉を繋いでいった。町を出るなら一緒に着いていく。戦いはできないけど、いろいろなところでサポートができると思う。レザが傷だらけで発見されたときは本当に怖かったし心配した。また突然レザがいなくなって、わたしのいないところで死んじゃったりしたら絶対に嫌だ。フラムは思いつく限りの理由を並べてレザを引き留めた。だが、そんなことでレザの決心が揺るがないこと、レザはきっとフラムを連れて行ってはくれないこと、それは誰よりもフラム本人が一番わかっていた。レザは不器用で、頑固で、でも決めたことを絶対に成し遂げる強さがある。フラムはレザのそういうところが好きだった。レザは結局フラムの考えた通り、フラムの想い通りにはならなかった。

 だが、実は、フラムの心の中でのレザに対する想いや葛藤に耳を傾ける者がいた。


 一般に魔物と言われるものは、実は大きく2種類に分けることができる。もともとこの世界に存在していた物質や生物が、濃い魔力に長期間晒されたり、または別の魔物の影響によって変質したもの。これは後に下級魔物と分類される。そして、上級魔物というのが、この世の裏側、根本的にこの世界とは違う世界を生きる“本物”の魔物である。上級魔物は数が少なく、また理を異とするこの世界には基本的には干渉する手段を持たない。辛うじて存在を留められるのがダンジョンの深部であり、ダンジョンはそうした上級魔物の住処なのだ。彼らはそこで下級魔物を生み出しながら生き、いつか地上に出られる日を待ち望んでいた。
 上級魔物は人間が持つ特殊な魔力について研究を進めており、それが“感情”や“記憶”、“言葉”と密接な関係があることに気がついていた。上級魔物の中には自ら人間の言葉や感情を模倣し、その力を得られないか模索している者もいた。彼は魔界から人間界へコンタクトを取るために、手鏡のような魔具を使用していた。

 その夜、レザは強大な魔力の存在を感知した。レザのように強い魔力を持つ人間は、他の魔力の動きも機敏に捉えることができた。その発生源がフラムの家であることを、レザは感覚で理解できても頭では全く理解できなかった。とにかく大急ぎでフラムの食堂に向かい、扉を破壊し、部屋に押し入った。

 そこにははもう、フラムはいなかった。正確には、そこにいたのはもはやフラムではない存在だった。
 闇を体現するような漆黒の影は周囲に強大な魔力を発し続けている。レザは警戒を強めながら、必死に呼びかけた。

「フラム!? フラムなの!?」
「……」

 返事はないが、反応はあった。これがただの魔物ならレザの存在に気付くや否やすぐに攻撃を仕掛けてくるだろう。そうしないところを見るに、レザは再び声を投げた。

「フラムなの!? 返事をして!! 一体何が起こってるの!? ……!?」

 やはり返事はないが、レザは目の前の存在からフラムを感じ取った。フラムの声、想いが朧気にレザに伝わってくる。その感情は決して負のものではなく、むしろ深い愛情や憧憬のようなものであった。レザは戸惑いながら、一歩、また一歩と歩みを寄せた。そして、2人の距離はついには0となった。


 フラムが悪魔との取引のために捨てた代償は大きかった。現在彼女の存在は、レザの心臓に繋ぎ止められている。フラムはレザの魔力の循環を直に感じるとともに、その鼓動の強さを自らの力に変えているのだ。フラムはレザの一番近くで共に戦うことが叶った。

 勇者たちは次々にダンジョンを踏破しているそうだが、どうやらダンジョンの奥から魔界に乗り込み、魔王と呼ばれる存在を倒そうとしているらしい。レザは勇者に恨みがあるわけではないが、勇者より先に魔王を倒してやることを考え、その日を待ち望みながら様々なダンジョンへと向かっていった。

 今のレザなら、きっと無敵だ。