Efflorescence

 スプレーを壁に吹き付け、ブラシで擦り、水で洗い流す。白く変色していたレンガ調の壁はすっかり元の鮮やかさを取り戻した。大がかりな手押し車に掃除用具を戻し、次の場所へ移動する。寒空の下、白木はいつも通りの決まったルーチンで公園内を移動する。定期的な公園内施設の清掃、それが白木のお仕事だ。

 いつものルートで掃除を進めていく白木。遊歩道を進んで噴水広場まで移動したとき、広場の一角の塀にスプレー缶で落書きをしている少女を発見してしまった。この寒い中薄着で楽しそうに絵を描いているなぁと半ば感心しながら、白木は会社支給の携帯電話をポケットから取り出した。

「もしもし管理課ですか? 清掃の白木です。噴水広場付近で、落書きの現行犯です」

 一息で現状を端的に伝える白木は普段であれば優秀だと褒められたであろう。しかし、今回白木のもとに返ってきた返事は笑い声であった。なぜ笑われているのかわからず白木はムッとしたが、しばらくすると相手も落ち着いたのか、きちんと説明を始めてくれた。

「ごめんね白木さん、伝えてなかったっけ? その人たぶんストリートアーティストのハナさんだよ。公園のイベントの一環で絵を描いてもらってるの。そっかー、落書きかぁ……」
「……すみません、知らなくて」
「いいのいいの、こっちも伝えてなかったし。そうだ、白木さんたぶん年同じくらいでしょ? ちょっと挨拶してきたらどうかな?」
「はぁ、そうなんですか。わかりました。それでは」

 電話を切り、少女のほうをもう一度見る。確かに公園側から許可をもらっていなければ白昼堂々とあんなことはできないだろう、と白木は考え直した。また、事務所の人は彼女が白木と年が近いと話していたが、見た感じ彼女は白木よりもっと年が下なんじゃないかと考えていた。小柄なのもあるかもしれないが、彼女はまだ高校生といわれても違和感のない見た目をしていた。
 しばらく彼女の様子をぼんやりと見ていた白木は、彼女の絵が徐々に完成に近づいていくことに新鮮な驚きを感じていた。最初は無秩序に色をばら撒いていただけのように見えたが、きっと彼女には最初から完成形がイメージできていたのだろうと白木は考えていた。今まで芸術にほとんど触れてこなかった白木は、少女のペインティングに引き込まれていった。

 ハナが白木の存在に気が付いたのは、絵の創作がひと段落ついて、小休止を挟もうとした時だった。明らかに公園の清掃員然としたその見た目に一瞬どきりとしたが、今回は自分は公式に公園から依頼をされて創作をしているということを思い出して自分を律した。今回は勝手に自分の絵を消されてしまうということはないはずだ。軽く会釈をすると、向こうも会釈をしながら近づいてきた。手押し車が妙な存在感を放っていた。

「初めまして。この公園の清掃員をしている白木と申します」
「あっ、はじめまして。ストリートアーティストのハナといいます。あっ、名刺をお渡ししますね」
「ではこちらも。ご丁寧にありがとうございます」

 ハナは職業柄こういったビジネスマナーからは縁遠い生活をしていたが、彼女の師匠からは名刺くらい作っておけ、コネクションを大切にしろというありがたいお言葉を受け取っていたのでたどたどしくも名刺交換を完遂した。ちなみに白木はハナの名刺に書かれた謎の絵を訝しげに確認していた。

「ストリートアーティストというんですね。こういう壁に絵を描くのって私初めて見て。しばらく見入ってしまいました」
「それはありがとうございます。こういうアートのことをグラフィティって言ったりするんですけど、あんまり知名度がなくて……これを機に興味を持っていただけたら嬉しいです」

 白木はハナのことを最初は子供っぽい人だと思っていたが、話してみるとかなりしっかりした考えを持っていることがわかった。生まれは離島で本土の街での一人暮らしは初めてなことや、この仕事を取るまでの苦労話、グラフィティのあるあるなんてのも話してくれた。白木も父子家庭で実家は自動車工場をやっていること、この清掃業にあまりやりがいを感じていないということも話してしまった。歩んできた人生は全く違うのに、二人は不思議と馬が合っていた。

「あっ、そういえばもうこんな時間! すいません、私まだ掃除しないといけないところがあるのをすっかり忘れていました……」
「あっ、じゃあご一緒してもいいですか? 私の絵を描くところを白木さんはずっと見てたんですから、白木さんのお仕事してるところも見てみたいです」
「いいですけど……いいんですか? そんなに面白いものでもないですけど……」
「いいんですよ! アーティストたるもの、何からインスピレーションがもらえるのかわからないので、これも立派なお仕事です! それに、単純に白木さんに興味があるので」

 どういう意味だろう、とぼんやり思いながら白木はハナを自分の仕事に随行させた。予備のマスクをハナに渡して、洗剤の散布や高圧洗浄機による壁の清掃、広い階段の掃き掃除などをいつものルーチンに従って行った。普段だと時間がかかる業務もハナが手伝ってくれたおかげで早く進んだ。

 小さいトンネルを移動中、二人はコンクリートの壁面に白いシミが広がっているのに気が付いた。ここは掃除しないのかとハナに聞かれたが、白木は問題ないと返した。この場所は清掃マニュアルで特に清掃の指示がされていない場所だからだ。

「それにしてもなんなんですかね、このシミ。鳩とかのフンにしては場所がおかしいし、大きすぎる気がします」
「これはエフロっていうんですよ。正式名称は忘れちゃいましたけど、コンクリートからは何もしなくても勝手に出てくるんです」
「へー、知らなかったです。対策とかはあるんですか?」
「そういうのは聞いたことないですね。放置してても勝手に消えていくらしいので。掃除するってなったら酸性の洗剤、私の場合はクエン酸で落とすんです。でもコンクリートに酸性洗剤って実はあんまり良くなくて、それで昔先輩に怒られたりしちゃいました」
「やっぱり清掃業も奥が深いですね。私あんまり洗剤の何性とか気にしたことなかったです」
「あっ、あれは気を付けてくださいね。酸性洗剤と塩素系洗剤の……」
「そのくらいは知ってます!」


 ◇


 その後もハナはたびたび公園に現れ、様々なところに作品を残していった。白木はハナの姿を見られる日もあれば、そうでない日もあった。いつしか彼女のいつものスケジュールにハナを探す、彼女の作品を見るという時間が組み込まれていった。ハナの作品作りの気まぐれさには驚いたが、白木にとってはそれも自分にないハナの魅力の一つであった。その気まぐれさは彼女の作品にも表れているようで、制作途中の絵が数日後には全く異なる雰囲気になっていることも多々あり、そのことにも白木はよく驚かされた。

 白木がハナと出会ってから1か月が経過し、冬の寒さも和らいできた頃。白木はハナの姿を公園でパタリと見かけなくなった。上司にそれとなく聞いてみたら、「そろそろ契約期間が切れたんじゃない?」という何とも投げやりな返事が返ってきた。きっと彼女はあまりハナの絵に興味は無かったのだろう、と白木は考えた。そんなものか、と白木は何も言わずに消え去ったハナに対してしぶしぶ納得をした。しかし、白木の『いつも通り』からハナを探す時間はなかなか消えてはくれなかった。

 数日後の土曜日。久しぶりに父親から連絡があり、実家の工場に来るように言われた。白木は実家の近くに住んではいたが、なかなか帰ることは少なかった。そもそも父親から連絡が来ること自体が珍しく、何事か、と返したらお友達が待っているよ、と返ってきた。

 大急ぎで実家に戻ると、工場の前でハナが待っていた。ハナの自由奔放さはある程度把握していたが、まさかここまでとは思わなかった白木は掛ける言葉を失っていた。そんな様子をハナは気にも留めずに、白木を工場内に案内した。

「私、そろそろこの街を出ることにしたんです。あの公園でのお仕事も終わりましたし、別の街にはきっと別の仕事もありますから」
「まだ次のお仕事決まってないんですね。……ところで、この住所は、どうして」
「だって白木っていう自動車整備工場ってここにしかないんですもん。てっきりここが白木さんのお家だと思ってました。でもお父様もいい人で、サプライズのために工場の一角を使いたいって言ったら快諾してくれましたよ」

 白木の父親は連絡を寄越してすぐに出かけてしまったらしい。仕事なのかパチンコなのかは白木にとってはどうでもいいことだった。

「すいません、黙っていなくなったりして。でもどうしても白木さんをびっくりさせたくて。これが私のこの街での最後の作品です」

 ハナが案内してくれた先のコンクリート塀には壁画が描かれていた。しかし、その絵は白木にとっては違和感しかなった。その絵は、白木の予想したハナの奔放さとはかけ離れたものであった。

「どうですか? スプレーでも工夫すればこういうきれいな直線や図形を描けるんです。構図を練るのにも苦労しましたし、ここまで地道な制作は初めてでしたけど、ちゃんと私なりに白木さんをイメージして描いたつもりです」
「私を、イメージして……」

 主に直線で構成された連続する幾何学模様。いくらかランダムパターンになっているところがあるが、基本的に繰り返しになっている部分が多い。色使いもハナ特有の鮮やかさ、自由さはなく、選び抜かれた数色だけを使いまわして描かれていた。確かにこの単調さ、面白みの無さは自分らしいのかもしれないと白木は半ば呆れながら納得した。だが。

「……ハナさんは、これが描きたかったんですか」
「はい。もちろんです。白木さんからは私の持ってないものをたくさん貰いましたから」
「持ってないもの……?」

 ハナの返答は白木の予想とは異なるものだった。ハナは自分が描いた絵から目を離さず、ゆっくりと話し始めた。

「私って、見ての通り結構気分屋なんです。その日の気分で描く絵を変えたり、そもそも描かなかったり。今回のはお仕事なので頑張って終わらせましたけど、日頃からそういうのが多くて、直していかなきゃなって思っていたんです」
「そんな時に白木さんと出会って、お仕事を見せていただいて。私、白木さんを尊敬しています。いつも決まった時間に私の絵を見に来てくれていること、知っていましたよ。とっても嬉しかったです」
「この絵はそんな白木さんの私にとってのイメージなんです。前に何からインスピレーションがもらえるのかわからないって話したのを覚えてますか? 白木さんのお仕事からインスピレーションがもらえるかと思ってたんですけど、白木さん自身から貰っちゃいました」

 自分の絵を見ながら嬉しそうに話すハナ。白木はそんなハナの胸の内を聞いて、気持ちの整理がつかないまま言葉を漏らしていった。

「ハナさん、私、ハナさんの自由さが好きでした。ハナさんの行動や作品作りは予想ができなくて、それをいつも楽しみにしていました。ハナさんは、そのままでいいんです」

 きっとこんなことを言ってもハナを困らせるだけだろう、ということは白木にも予想がついた。しかし、零れ落ちた言葉を堰き止めることはもう白木にはできなかった。

「ハナさん、ダメですよ。こんな絵を描いちゃ。こんな私を見ていてはダメです。公園にあったみたいな、自由で楽しい絵を描いてくださいよ。私のために絵を描いてもらったことは嬉しいです。でもそれなら私らしさじゃなく、ハナさんらしさのある絵を描いてほしかった。こんなこと言っちゃダメだってわかってます。でも……」

 そこまで言ってようやく、白木は口を噤んだ。今の発言は確かに自分の本心だ。だけど、ハナに聞かせていいものではなかっただろう。白木はすぐにこの場から立ち去りたくなったが、それより先にハナは白木の手を掴んでいた。その手は柔らかく、暖かかった。

「大丈夫ですよ。これは間違いなく私の絵です。これを描くのは大変でしたけど、公園の絵以上に楽しかったです。なんたって白木さんの絵なんですから。
 確かに白木さんからインスピレーションをいただきました。だけど、根っこの私の部分はきっと変わっていません。私はこれからもずっと私の絵を描いていくので、安心してください。この絵だっていつかきっと、白木さんに好きになってもらえるはずです。なんたって私の絵なんですから」

 気がつくと、白木は涙を流していた。拭おうと思ったがハナがしっかり手を握っていたのでそれは叶わず、白木はただ俯くしかなかった。そのあとは二、三言の挨拶を交わして、白木は立ち去るハナを見送った。


 白木がハナと別れてから1年が過ぎた。ハナの生活は前から大きくは変わらなかったが、一つだけ彼女のルーチンに変化があった。定期的に実家に帰り、ハナの残していった絵を見ることだ。彼女の最後の言葉の示すものが、白木にはまだ掴めなかったからだ。
 ある日白木がいつも通り絵を見ていると、絵の表面に不自然に白い色が染みだしているのが見えた。それは一見すると単なる汚れとしか捉えられないものだったが、見方によっては白い花のようにも見えた。
 白木はハナから貰った名刺を取り出すと、初めてその番号に電話をかけた。冬の寒い日の出来事だった。