社会人のお前たちが百合を創作すべき100の理由

 

百合を制する者こそが人生を制する。

 

 社会人になって半年が過ぎた。会社というのがどういう組織で、どういった技術が必要なのか少しずつわかってきた。百合である。

 実際自分は創作活動を始めて1年と少し、まだまだド素人だという自覚はある。だが、この“百合を書いた”という経験は社会人をやっていく上でとても役に立つのだ。

 ぜひこれを読んで百合の重要性に目覚め、創作百合をしまくってほしい。

 

 

物事を簡潔にわかりやすく伝える

 

 一般に、良い文章というのは上記の条件を満たす文章のことだろう。もちろん詩的な文章にも素晴らしいものはたくさんあり、それは芸術的という点で評価できる。しかし、実社会で仕事をするというシチュエーションでは、そのような文章は不適切である。人によって捉え方が異なる文章を伝言ゲームすると、簡単に組織はその組織的な能力を失う。円滑なコミュニケーションこそが、組織の一員として必要な能力なのだ。

 だがそれは簡単ではない。根本的な問題として、人間同士はお互いの考えを100%共有することができない。それをするためには脳と脳を電極で繋ぐなどのアプローチが必要だろう。(これは物の例えである。) 人は基本的に(会社では特に)言語でのみコミュニケーションを行うため、互いに分かり合うということは非常に難しい。しかしそれで諦めてしまうと組織の一員として仕事をすることは不可能だ。我々は出来る限り読む/聞く人間のことを思いやり、言葉や伝え方を選ばなければならない。

 大体の人間は組織内でそれが出来ている。しかし、そのコミュニケーションは聞く人間の知識、経験といった理解能力や、テンプレート化したやりとりの省略等によって支えられている。全く新しい状況を前にして、自分の状況や判断の根拠を、前提知識・価値観の異なる相手に、正しく伝えるために、我々は伝える能力を磨く必要がある。

 創作というのは、自分の中のイメージを出力するプロセスを含む。伝えたいことを伝える、どうでもいいことを書きすぎない、話の流れが逸れていかないように構成に気を配る……といった「伝えるための努力」は、創作活動に限らず、あらゆるコミュニケーションにおいて必要である。これに慣れてくれば、簡潔に、かつ、ある程度の説得力をもって他人に物事を伝えることができる。

 ちなみに、もちろん誤字・脱字や言葉の誤用、より適切な表現についての知識があれば言葉の説得力は増す。この能力は読むプロセスでも得ることができるが、書くことによって得られることもあるだろう。

 

 

擬人化で関係性を抽出する

 

 先ほどは自分の中のイメージを出力する、という点に着目したが、そもそもの話、オリジナルの世界観を無から創作することはなかなか容易ではない。そこで有効なアプローチとして、物事の擬人化をここでは挙げる。

 擬人化コンテンツは様々なものがあり、敢えてここに実例を挙げずとも読者は簡単にイメージできるだろう。擬人化のポイントは、「現象に人格、つまり感情を付随させる」ことにある。

 世の中では様々な事象が複雑に絡み合っている。それらひとつずつに注目し、単純化して関係性を抽出する。その後背景の世界観を貼り付けていく。こうすることでオリジナルに近い世界観やストーリーの創作ができる。また、同じプロセスを経ていても、注目する点を変えれば違う創作物ができる。それらはどちらが正しいという物ではなく、並列することでより世界観を強固にする。この方法は実際に多くの創作物で用いられている。

 ちなみにここで注目する対象を自身の仕事内容に関わる現象にすれば、注目して単純化するプロセスでそれについて詳しくなれるというメリットもある。さらに、物事を単純化して咀嚼する、別のものと組み合わせてみるという考え方は時にビジネスを好転させる。

 

 

人々は物語を求めている

 

 世界で最も多く読まれた本をご存知だろうか。それはもちろん聖書である。

 私はキリスト教に詳しくないので迂闊なことは言えないが、宗教が昔から人々の救いになっていたという事実は覆しようがないだろう。生活の中での苦しみや理不尽、理解の及ばない現象に宗教は物語を以て理由を与えた。それが科学的に正しいかどうかは問題ではない。理由があり、物語の強度が強く、人々が納得したので宗教は広がった。そこに救われた人間は確かにいたのだ。

 これは現在、科学の進歩した会社組織にも同じことが言える。結局のところ、人間の判断やランダム要素の絡む現象を我々はコントロールできない。だが、それがコントロール出来ない理由を人々は求めている。

 強い創作ができる人間は即座に物語をでっちあげる。それが科学的根拠に基づいているかは問題ではない。相手を納得させることのみがここでは必要なのだ。

 

 

自己を削除せよ

 

 ここからは百合というジャンルについて特有の踏み込んだ話をするので、自衛のために引用元を明記しておく。

https://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0:百合が俺を人間にしてくれた――宮澤伊織インタビュー

https://www.hayakawabooks.com/n/n71228eb75bb0:百合が俺を人間にしてくれた【2】――対談◆宮澤伊織×草野原々

 とても話題になったのでご存知の方も多いと思う。(ただし、このインタビューも1年以上前の“古い”文章であることを頭に置いておかなければならない) この中で以下のような発言がある。

宮澤 あのですね、壁になりたいとか、観葉植物になって見守りたいとか、あるじゃないですか。僕はまったくそう思わないんですよ。

――それはどうして?

宮澤 え? いらないじゃないですか。僕。

――壁ですら、存在しなくていいと。

宮澤 うん。観測したくない。

 百合の創作を行うとき、(多くの場合)作者は限りなく自分の存在を薄める。そこに登場人物がいて、純粋に登場人物のみが物語を成す。このとき、読者と作者は同じ「客観」の立場に立つことになる。

 これは、組織内での意思疎通にとても役に立つ。自分の意識が物語に介入していると、そこに不備があった場合に判断をした存在=自分がその責任を負うことになる。出来る限り説明の際には客観に立ち、「この状況に自分の意思は介入のしようがない、誰が見ても客観的にこの結論となる」という立場を一貫して持ち続ける、また、その説明ができるように意識をしてプレゼンを構成することはビジネスシーンで余計なトラブルを回避するのに非常にうってつけなのだ。

 

 

おわりに

 

 以上の文は全て詭弁である。別にビジネスがどうとか組織がどうとかどうでもいい。いいから百合を創作しろ。俺に見せろ。