Macrocell

 初夏。よく晴れた朝の街並み。学校へ続く道を2人の女の子が歩いている。

 五十島苑香(いそしまそのか)。高校生でありながら学校近くのアパートを借りて一人暮らしをしている、という『設定』である。
 隣を歩いているのは相川乃亜(あいかわのあ)。苑香のアパートの近くに住んでおり、毎朝待ち合わせて一緒に登校している。苑香の家に転がり込むこともよくある、苑香の親友、という『設定』である。
 夏服への移行期間はまだ終わっていないが、日に日に暑くなる気温に耐えられず、2人ともすでに半袖シャツに衣替えしている。それでも暑さが和らぐわけもなく、時折吹く風もまるで炊飯器を開けた時のような熱風である。わざわざこんな『設定』にしなくてもいいのに、と苑香は乃亜に聞こえないようこっそり愚痴を漏らした。

 照り付ける夏の日差しも、道を走る自動車も、隣で楽しそうに話す親友さえも、そのように脳に見せられているだけ、ということを苑香は理解している。本当の自分は病に伏していて、現在の最先端の医療技術で辛うじて生き永らえている、ということも。

 人の脳に直接電気信号を送り込み、脳の演算能力を利用して人為的に『夢』を見せる技術。まだ一般には広まっておらず、臨床実験として苑香の脳は使われている。世界は今まさに第四次産業革命を迎えていると言われており、ひょっとしたら苑香が目覚められるのも時間の問題なのかもしれない。そんなことを彼女が望んでいるかは別として。


「そーのーかー。何ボーっとしてんの?」

 乃亜の呼ぶ声に苑香はハッと"夢"に引き戻される。目の前の信号はちょうど点滅から赤に変わるタイミングで、乃亜は横断歩道の途中で引き返してきたらしい。良い友人を持ったな、と苑香は自嘲気味に笑った。

「ごめんごめん、何でもないよ。ちょっと現実の自分のこと考えてた」
「苑香、またそれ? 中二病はそろそろ卒業しなよー」
「……本当はわかってるくせに」
「何のことだか。それよりさ、さっきの話の続きなんだけどね……」

 乃亜は楽しげに話し始める。話の内容もころころ変わるし、時々どこか抜けている。本当に普通の人間にしか見えないが、彼女もまた自分が見せられている夢の一部、つまりは良くできた人工知能なのだ。

 教室はいつも通り賑やかだ。皆が各々自分の話をしているのは普通の世界なら当然のことだが、苑香の見ているこの景色となると話が変わってくる。彼ら、彼女らは本来であれば苑香の気を紛らわすためだけに存在しており、苑香の関与しない生活など無くてもよいはずである。しかし、彼らにも間違いなく生活があり、感情があり、人生を歩んでいるのだ。苑香はいつもぼんやりとそのことを不思議に思っていたが、授業の始まりとともに彼女の興味の対象はAIたちから目の前の教科書へと移っていった。


 授業が終わり、放課後を迎えた。2人とも部活には入っていないが、彼女らには行かなければならない場所がある。バイト先のファミリーレストランだ。学校制服からエプロンに着替え、2人はホールに出る。平日とはいえ店はそこそこの客で賑わっており、2人はそれなりに忙しい時間を過ごした。乃亜のミスをカバーしたり、逆に乃亜やほかのスタッフに助けてもらったり。苑香はこの時間が嫌いではなかった。時折どうしても孤独を感じてしまうこの生活の中で、苦楽を共にできる仲間との交流は苑香の心の支えとなっていた。ついでに言うと、ファミレスでのまかない料理は苑香の財布の支えにもなっていた。

「今度さ、またお泊り会しようよ」
「んー、考えとく」

 まかないのパスタをつつきながら乃亜がそんな提案をしてくる。曰く、期末テストに向けた勉強会をしたいのだという。テストにあまり興味のない苑香は適当にあしらう。どうせ途中で脱線してゲームしたり遊んだりしてしまうに決まっているのだ。そして、苑香は乃亜と過ごすそんな時間が嫌いではなかった。

「苑香ちゃん理科系あんま得意じゃないでしょ? 助けになると思うよ~、じゃあ代わりに古文教えてね」
「何も言ってないのに勝手に話し進めるじゃん……まあ別にいいけど、まぁあんまり当てにしないでね」
「まあ当てにすんな酷すぎる借金?」
「ん? ……んー」
「うわ、ほんとに分かってない人のリアクションだ。それ一番困るから」


 次の週末。乃亜は朝から苑香の家に遊びに来た。汚いところだけどあがって、こんなの汚いうちに入らないよ、と何度目かもわからないようないつもの挨拶を経て、2人の勉強会が始まった。乃亜はビニール袋いっぱいのお菓子を持ってきていたし、苑香もちゃっかり大量のジュースを冷蔵庫で待機させていた。
 初めはこなさなければならない課題もあり、2人は真面目に勉強をしていた。だが、1時間くらい経ち、ちょっと休憩、と言ってテレビを点けてから、そのテレビを切る頃には既に辺りは暗くなり始めていた。

「思った通り。全然勉強会にならなかったね」
「まーいいじゃん、まだテストまで10日以上あるんだよ? のんびり行こうよ」
「乃亜はすぐそう言うし、実際のんびりしてるのに、なんでテストいっつも上位なの……?」
「えへへ、地頭ってやつ? ていうか苑香もそんなに悪いわけじゃないじゃん」
「そーだけど。でも乃亜と比べられるとやっぱりね……」
「気にしなくていいのに……」

 スーパーで食材を買ってきた帰り道。2人はそんな他愛のない話に花を咲かせる。こんな生活がずっとは続かないことを苑香はきちんと理解はしていたが、それでもこんな生活がずっと続けばいいと願っていた。そして、この時乃亜は、苑香とは別のベクトルの幸せを感じていたのだった。

 ご飯を食べて、お風呂に入り、テレビドラマを流しつつ2人で家事や翌日の準備をする。お泊り会の日の2人のいつもの光景だ。いろいろな雑務が一段落ついたら、ソファに並んで座ってお話をする。いつも通りだが、今日は少し乃亜の様子が違っていた。

「……ねえ、苑香。前に言ってたよね。本物の自分は病気で植物状態って話」
「うん、まぁ……証明はできないんだけどね」
「あの話ね、最近特に……本当なんじゃないかな、っていうか、本当なんだろうなって、わかる感じがするの」

 意外な乃亜の告白に驚いた苑香は乃亜の表情を探ろうとした。しかし、乃亜は俯いたまま話し続ける。

「なんかね。前から時々、私は苑香の近くにいるときだけ本当の私になれる、みたいな感覚はあったんだ。家に一人でいても、テレビを見てても本を読んでても、時間があっという間に過ぎる、というか……苑香の近くにいる時とはなんというか、感覚の密度が違う、みたいな……ごめんね、意味わからないか」
「……大丈夫だよ、続けて」
「ありがと。……苑香と出会う前、中学の時のこととか、私はちゃんと覚えてるし記憶もあるんだけど、でもそれとは別に私は最近生まれたんじゃないか、って感覚もあるの。普通なら意味わかんないんだけど、苑香の言ってたことと合わせると辻褄が合う、というか、正しいんだろうな……って思う。で、それだけなら別にいいんだけど、最近特に自分の感覚がおかしい気がするの」
「……うん」
「なんていうかさ、これはただの予想なんだけど、きっと現実の苑香は良くなってきてるんだよ。目覚めるのも時間の問題。で、もしそうなったら……私って、どうなるのかな……」
「……」

 逡巡。乃亜の言っていることは正しい、という感覚は苑香の中にもあった。テスト勉強を口実に集まったのに、テストの日までこの世界にいられるか、苑香は断言することができなかった。──いや、もしかしたら覚醒の日はもっと早く来るかもしれない──苑香は立ち上がり、勉強机の下から2番目の引き出しを開けた。

「……苑香、どうしたの?」
「私ね、貯金してたんだ。仕送りとバイト代。ぶっちゃけ十分すぎるくらいお金はあったけど、なんとなくね。……今から、使い切っちゃおう」
「今から?」


 夜の帳は既に降りきっているが、それでもまだ半袖で十分すぎるくらいだ。2人はこの時間には使ったことのないバスに乗って、駅に向かっていた。

「あ、今調べたんだけど深夜でも高校生だけでタクシー乗っていいんだって。むしろ安全のために推奨されてるみたい。やったね、どこまでも行けるよ」
「……苑香、大丈夫? 深夜料金もそうだし、職質とかもあるだろうし、明日には帰るんだよね? 月曜には学校もバイトもあるよ? ……たぶん」
「月曜が来ればね。でも私、やっぱり後悔したくないの。そういえば、乃亜がどうなのかはわからないけど、私ね、ごはんとか寝るのを我慢するの、試したことあるんだ。やっぱり空腹感とか眠気ってそんな気がするってだけで、本当は寝なくても食べなくても大丈夫なの。長旅になったとしても安心だよ」
「話聞いてた!? そんな問題じゃないよ!! それに、さ……」
「……大丈夫。ゆっくりでいいよ。あ、駅着くから準備して」


 2人の逃避行が始まった。駅からは終電の時間までとにかく西に向かい、電車が終わったらタクシーに乗り換えた。適当に遠くの県庁所在地の名前を挙げたら初老の運転手は若干怪訝な目を向けたが、無事始発の時間に都市圏のターミナルに着くことができた。ちなみに、タクシー内で2人はぐっすり眠っていた。

 折角なので朝日を見たいと何となく話していたら、別れ際の運転手がおすすめの場所を教えてくれた。なんでも駅から頑張れば歩ける程度の距離で、海岸線の向こうから昇る朝日が見られるスポットがあるのだという。乃亜は歩きたくないのでスルーするつもりだったが、苑香はじゃあお願いしますとタクシーに再び乗り込んだ。乃亜と運転手は同じ表情を浮かべていた。


 夜明け前の海は若干肌寒く、強い風が容赦なく薄着の2人を襲った。2人は岩場の影に隠れながら、夜明けの時を待っていた。そんな中で、2人にはさらにタイムリミットの予感もしていた。何とはなしに、乃亜が口を開いた。

「まさかこんなことになるとは思ってなかったよ。まず、ありがとう。……じゃあさ、話すね?」
「……うん」
「私たち、苑香以外の全人類は苑香のために作られた存在だってこと、今は理解してる。やっぱり夢ってさ、これ夢だなーって思ったら醒めやすくなっちゃうし、今こんな感じなのももしかしたら私のせいかもね、なーんて」
「……」
「……私はさ、苑香がこれからも元気に生きていてくれるのが一番だと思う。これは自分の意志ね。私がどういう存在とか、何のために生まれたとか、そんなのは関係ないの。だからさ、これからも私のこと、ここで過ごしたこと、ちゃんと覚えておいてね?」
「うん……」
「あっほら、そろそろ日が昇るよ!」

 岩場から移動し、海岸のほうへ向かう2人。太陽が、海の果てからゆっくりと顔を出している。今まで幾度となく見られたはずの光景で、この世界では最後の夜明けだった。視界が、意識が、徐々に白んでいく。ずっとこのままがいいのに。そう苑香は思っていたが、無情にも陽はすべてを照らしていく。海を、空を、大地を、親友の笑顔を。

「これからは向こうで頑張ってね。ずっと、応援してるから──」


























































「目が覚めたのね、おはよう、五十島さん。いい夢は見られたかしら」

 病室の天井が視界に入った。続いて、異様に伸びている自分の前髪に気がついた。ここは病院で、自分は入院中で、現実が返ってきたのだ。
 身を起こせないので、視線で返事をする。さっきの声は、近くにいた女医のものであった。

「改めて自己紹介をしますね。私はあなたの担当医の相川といいます。五十島さんが眠っている間、私がいろいろな世話だとかその機械の調整だとかをしていました。これからも退院まで、よろしくお願いしますね」

「じゃあとりあえず、頭についている電極パッドを外しますね。夢の中に世界を作り出す研究については、まだデータが少なくてよくわからない部分も多くて。体力が戻ってきたらお話を聞かせてくださいね」

 言葉を発することもできず、ただ自分の周囲で作業をするその人を視線で追う。面影はある。名札には『相川 乃亜』と書かれていた。


 数日して、ある程度体の機能は戻ってきた。苑香の思っていたよりも技術は進歩しており、介護用のロボットアームやリハビリ用のスーツに苑香は何度も助けられた。久しぶりに両親の顔が見られてよかったと苑香は思ったが、一番見たい人の顔を見ることはできなかった。

 担当医が言っていたように、苑香はとある実験の被検体だった。その内容は人間に任意の夢を見せるという内容だけでなく、人間の脳だけで世界を作り出すほどの演算をさせ、生活のシミュレーションを行わせるという内容も含まれていた。脳から出力される内容が夢であり、それを外部からはおぼろげにしか観測できず、ログデータなんかも残されていないようで、相川医師はいろいろなことを苑香に訊ねてきた。この実験の内容はその界隈ではかなり注目度が高かったらしく、夢の中での経験を本にしないかと勧められることもあった。しかし、苑香はそれを断っていた。

「そういえば、私と同じ名前のAIがいなかったかしら? 私のパーソナルデータを基にしているものを設定していたのだけれど」

 嘘をつくのも良くないと思い、苑香は乃亜のことを正直に話した。相川医師は喜んでいたが、実のところ苑香は彼女のことをよく思ってはいなかった。あくまで、彼女は自分の親友の乃亜ではないからだ。


 無事に退院の日を迎えてから数か月が経過した。苑香は家に戻り通うはずだった高校に編入した。家族との生活、アルバイトのない日々。無色の生活を送る苑香のもとに、再び相川医師から手紙が来た。新技術の実験への協力のお誘いだった。

 見慣れてしまった建物の応接室に通された苑香は、相川医師と久しぶりに対面した。彼女は苑香との再会を喜んでいるようだった。

「さて、五十島さん。お手紙は見てくれたかしら」
「……えぇ、まぁ。あの実験の続き、ですよね」
「そうなの! 実験のログデータはコンピューター上には残されていないのだけど、五十島さんの脳にはその計算領域が残されているはずなの。そして、人間の脳からコンピュータ上にデータを出力することができれば、より強固な形で実験内容を保存できるの。これは、五十島さんにとっても悪くない話でしょう?」
「……」
「貴女は決して短くない時間をあの世界で過ごしたはずです。思い入れのある人……もたくさんいたでしょう。その人たちともう一度会いたいと、あなたは思わないの?」
「……………………思いません。 実験は、申し訳ないのですが、辞退させてください」

 苑香の声は震えていた。あの日々を思い返す。決して得難いたくさんの経験をしてきた。また会いたい人はたくさんいる。特に、最後までちゃんとありがとうを伝えられなかった人が。

「私は……確かにあの日々は大切な宝物です。だからこそ、あなた方に触れてほしくない。乃亜は、あの子は私の背中を最後に押してくれました。これから前を向いて生きてほしいと。あの子の、自分が死ぬことに対する不安は私には想像できません。だからこそ、私は振り返らないんです。あの子のために。
 私は乃亜が好きだったんです。あの子をこんな世界に呼び戻したいなんて思いません。あなたは、自分がどれだけ残酷なことを申し出ているか分かっていますか。……すみません、失礼なことを言いました。帰ります」
「……そう、それほどの思いがあるなら私からどうこう言えるものではないわね。今日はわざわざ来てもらってありがとう。表まで送るわ」
「……どうも」


 結局、別の被験者を使ってその実験は進められた。だが、苑香ほどこの実験に適した人間はもうこの世にはいないだろう。この一件で脳科学のこの分野では技術の進歩は10年遅れたと言われている。そして、寝たきりの人間の少女とAIの感動的な友情物語は世間に出回ることはなかった。